小布施町(おぶせまち)は、長野県北東部に位置する町です。
小布施町と言えば、何といっても栗が有名。
美食長野でも、何度か栗のスイーツをいただきに小布施町のお店に伺いました。
今回はそんな小布施町の歴史を紹介していきます。
栗の産地として有名になるまで
小布施町はなぜ栗が有名な地域として定着したのでしょうか。
その大きな理由として、小布施の地形があげられます。
小布施は長野県北東部に位置する地域で、東に雁田山、西に千曲川、北に篠井川、そして南に松川が流れていて、四方を山と川に囲まれた地域となっています。
このような山河に囲まれた中で、小布施の地域形成に最も影響を与えたのは松川でした。松川が長い年月をかけて氾濫を繰り返したため、小布施は扇状地として形作られていったのです。
松川の水は酸性が強かったため、その土壌は米を作るには不向きでした。
そのため、先人たちはこの土壌に合う作物を探すことにしたんですね。その結果、育成に向いていたのが栗だったというわけです。小布施が栗の産地になったのは、こんな地形の理由があったんですね。
長年、松川の氾濫に悩まされていた小布施でしたが、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、松川の水を制御するための築堤事業が行われることになります。この事業によって、川の氾濫が激減し、開墾できる土地が大幅に増加したため、農地としての可能性が大きく拓けました。
今では、栗のほかに、りんご、梨、さくらんぼ、ぶどうなど、様々な果樹生産に適した条件が整い、現在の小布施町では果樹園が盛んに営まれるまでになりました。
交易地から豪商の町へ
松川の水を制御するための築堤事業は、開墾地を増やす以外にも、この地域に大きな恩恵をもたらしてくれました。すなわち、氾濫が激減した小布施は、谷街道、谷脇街道、千曲川など、新潟方面と関東などの地域をつなぐ様々な道の結節点としての役割を果たすことになったのです。結節点となるということは、人がたくさん行き来するということ。すなわち、小布施は交易地として発展していくことになるのです。
交易地として栄えていく小布施には、数々の豪商が生まれることになりました。
いつしか小布施は、商業の町としてその名を轟かせていくのです。
観光地として発展を続ける小布施町
土地が開墾され、交易地として発展していく一方で、小布施の人々は17世紀初頭、新しい村を積極的に作り、様々な地域から移住者を受け入れました。その中には現在も町の商業の中心となっている上町、東町、中町、横町、伊勢町などがあります。
豪商たちの中にも、様々な文化人と交流する人々がいました。
特に豪農・豪商として活躍した高井鴻山は、晩年の葛飾北斎を小布施に招き入れ、作品制作を支援したといわれています。
このように小布施の人々には、近世以降、外部からの人やモノを積極的に取り入れる文化が根付きました。こういった姿勢は、現代にも脈々と受け継がれていて、今日の小布施町の観光業を引っ張っています。
小布施町の観光業は特に盛んで、今では小布施町の住人約1万人に対し、年間観光客数はなんと100万人を超えることもあるとのこと。エネルギッシュな町おこしの伝統と信念を感じますね。これからの小布施町に益々期待しましょう。
今回は長野県北部にある小布施町の歴史を見てきました。
とても魅力的な町なので、お近くにお寄りの際は、是非観光にお立ち寄りください。
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